会社のあゆみ2

あゆみ

目次

会社のあゆみ

7話 丸ハンドル

出光様の実入りドラムの配送も徐々にではありますが、増えてまいりました。
前号でもお話したように、出光様の配送は早朝になりますので、最初のうちは我慢して頂いていた販売店の方々からも、日に日に苦情を頂くようになりました。 冬場のまだ夜も明けない、また一番寒い時の配送になりますと、これはもう大変です。

私どもも、出光様もこの問題を解決しなければならなくなり、当社で出光様の専属車両をつくろうということになりましたが、新車の三輪車を購入出来るような 資金もなく、二年ほど経った中古車を購入致しました。この車は当社で初めての丸ハンドルであり、こういうことを考えるとその頃はいかに古い車ばかりであっ たかお察しがつくことでしょう。社員の誰もが、あの丸ハンドルのついた車に、運転席にドアがついた車に乗りたいと思ったことか・・・。

この当時、石油販売は日の出の勢いで伸び続け、スクーターや単車が全盛期で、国民車と言われたトヨタパプリカが、一般の人々でも購入出来るような社会に なってきました。私の夢は、小さくても、中古車でも構わない、自分の車が欲しいということでした。まだ弱冠22歳でありました。

石井産業三様と出光興産四日市油槽所様という2つのお客様を得て順調に仕事を続けさせて頂くこととなりましたが、出光様の方は実入りドラムの出荷が増える にしたがい、3㌧車よりは4~6㌧車と、どんどん増車が進められていきました。前にも触れましたが、資金に限度があり、新車購入というわけにはいきませ ん。ほとんど中古車を購入して対応しました。

ちょうどこのころ、石井産業様の工場敷地内に『池畑運送合資会社』と社名の入った事務所を持つことが出来ました。事務をする場所が五畳程度、休憩室が六畳 程度の掘っ立て小屋ではありましたが、やっと自分達の城が出来たという嬉しさは今でも覚えております。

この年には、皆さんご存知の伊勢湾台風のきた時だったと記憶しております。夜の7~8時に風雨はどんどん激しくなり、みんなが出来るだけ被害をくいとめよ うと頑張りましたが、高潮のため今の1号線より東側は床上浸水の被害を受けました。
台風一過の翌日は好天に恵まれましたが、四日市にも大きな爪痕を残しました。

8話 待望のタンクローリー

仕事も徐々にではありますが順調に拡大してまいりました。

出光様も増車が計られ、ついに当社で待望のタンクローリーを購入することとなりました。日産の6トンシャーシに7KLのタンクを積んだボンネット型ロー リーです。しかし、ローリー車に関しては出光様が自家用車で配送されていた時代ですので、なかなか良い仕事は頂けず、配送困難なところを当社が担当すると いう状況でした。

頂いた仕事は、毎日尾鷲市まで軽油を配送する仕事でした。その当時、現在の東邦石油様のところは山であり、平地にする工事が行っておりました。この工事に使用する車両用の軽油を配送させて頂くことになったわけです。

その頃の国道42号線は松阪市以南は砂利道であり、6トンローリーが1台走れるくらいの道幅しかない山道でした。今ですと片道3時間強の道のりですが、その当時は5~6時間を要しました。

配送前日の夕方に積み置きをしまして、夜11時ごろ出発して、尾鷲には翌日の5時くらいに到着して、7時頃から荷卸をして帰るという繰り返しでした。なに ぶん、砂利道ばかり走りますので、2~3回の往復でスプリングが2~3枚折れてしまい、毎度修理をしなければならない状況でした。

9話 結婚

昭和32年に荷馬車からオート三輪による輸送に変わり、待望のタンクローリーでの輸送も始まり、私が担当をし、毎日尾鷲まで配送をする日々でした。

その頃の池畑運送は合資会社でしたので、代表社員(社長)が無限責任社員という法的な位置付けで、会社が倒産をすれば、最後まで責任を取らなければならないのです。
父親は、三重県県会議員をしておりましたので、ほとんどの業務を私と平井社員(故 平井専務)で行なっておりました。父親は最悪の事態を考え、何の財産もない私を代表社員(無限責任社員)に変更し、私は23歳にして代表社員に就任することになりました。
私は、毎日ローリーに乗務しながら代表社員を務めるという日々でした。

昭和38年に縁がありまして、結婚をすることになりました。
見合い結婚でした。私は見合いの経験が無く、初めての見合いでしたが、妻は初めてではなかったそうです。
新婚旅行は、鹿児島と宮崎に行きました。私も妻も生まれて初めて飛行機に乗りました。
大阪空港発のYS11というプロペラ機でした。

10話 人手不足

昭和40年6月に現在社長である長男の弘樹が誕生致しました。
業務の方も順調に拡大して参りました。特に、出光様が販売量をどんどん拡大していって、それに伴いトラック・ローリーを増車させて頂きました。

オート三輪 6t・8tトラック 7KL・8KL積タンクローリーに加えて、小口需要家先に配送する2KL積ミニローリーと初めてボンネットのLPGローリーを保有する事になり、車両も25台位まで増車をすることができました。
車が増えるたびに、一番の悩みの種が人手不足でした。
まだまだ、待遇面や労働環境の整備が出来ていませんでしたので、なかなか入社希望者がいませんでした。
職業安定所の近くまで行き、乗務員に向いていそうな人に直接声を掛けて、勧誘を繰り返していました。
人材の確保は、その時は一番大事なことでしたので、当時自宅の前にあった納屋を改造し、今でいう社宅らしき物を作りました。食・住をまかなって、増員の努力を致しましたが、その後が大変でした。
朝食・昼食の弁当・夕食の用意すべてを、妻が子育てをしながら、やってくれていました。
一人・二人と増員出来ていくことが、楽しみと苦労の両面でした。多い時には6~7人にまでになり、妻にも従業員にも、大いに当社の力となっていただきました。

妻には、集金業務での協力もしてもらいました。
出光様の名古屋支店に手形を頂きに行かなければならないのですが、私も他の社員も集金に行く余裕など無く、妻が弘樹を背負って、名古屋まで電車に乗って集金に行ってくれました。

 

11話 松本への出店

昭和41年には、石井産業さんの敷地内にあった事務所を無くし、新正2丁目に自前の事務所を新設致しました。
わずか35坪ほどの木造2階建ての事務所でしたが、「当社の城が出来た」と全社員で喜び合ったことを記憶しております。
車輌も増車されて行く中で、車庫の確保が必要となって参りましたが、祖父・父が農業をしておりましたのと、その頃市街化が進み、田んぼを埋め立て車庫用地にすることが出来たので、土地を購入しなくても良かったことは、大変恵まれていました。

この頃、出光様の松本支店から「LPGの10t積のキャブオーバー車で配送をしないか?」とのお話を頂きました。
その数年前には、大阪府西宮市内でLPGローリーが横転事故を起こし、積荷が漏れ大火災が発生したために、同業者の中でもLPGローリーは怖いと思われていて、松本の運送業者の方々も松本支店からの要請を断っておりました。
私共と致しましては、業務拡張のチャンスと思い、配送をさせて頂くことに致しました。
LPGローリーは松本に配置し、積込場所は千葉製油所で、松本~千葉間を二人乗務にて二日間で一運行をするという状況でした。
乗務員の方々は四日市から出向していただき、宿舎は出光様の松本支店の寮をお借りして業務をしておりました。
その後、長野県内でのLPGの増販がされる中、LPGローリーも数年で4台が稼働できるようになり、それに伴い、当社は、松本に支店を新設することに致しました。